対馬の名石館

自然が織り成す神秘的な紋様・造形美
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『椿』の歴史

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    ★『椿』………照葉樹林。ツバキ科の常緑樹。

    ☆ツバキの語源………『ツバ』は口、舌、唇の意から九州北部の方言でツバということから椿の花が形容され、口から吐く『唾』と花の『椿』とは関係があって、人の唾には呪力があると考えられていて、唾(ツバキ)の霊が宿る常緑照葉樹の意味で名付けられたという。


    【1】『隋書(7世紀)』………日本の『椿』が、初めて中国の史書に使われたのは、『隋帝国』第二代皇帝で詩人・文人でもあった煬帝(在位604年〜618年)が遣隋使の小野妹子が献上した椿を見て『海石榴』と名付けた。それは、基本的に内陸に文化の中心を持つ漢民族にとって海は辺境であり、椿が異国の更にその海を越えたところから持ち込まれた赤い花を見て感嘆し、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴(ざくろ)の名をとって、詩の中に『海石榴』と漢名として初めて使われたという。他の海を越えた異国から渡ってきた植物の名前で“海という名“がついた実例としては、南アフリカ産のサトイモ科観葉植物であるカイウ=海芋、中東原産のヤシ科有用植物であるナツメヤシ=海棗、南アメリカ原産のマメ科観葉植物であるアメリカデイゴ=海紅豆なども同じ理由で名付けられている。なお、中国語で『椿』とは日本に自生しないセンダン科チャンチンに当てられ、植物学的にツバキとは全く関係ないという。


    【2】『古事記(712年成立)』………古事記にみる『椿』を詠み込んだ記述


    (1)景行天皇(四世紀前半)12年12月条では、「すなわち海石榴樹を採りて、椎(つち)に作り兵(つばもの)にしたまふ。よりて猛き卒(いくさ)をえらびて、兵(つばもの)の椎(つち)を授けて、山を穿(うが)ち草を排(はら)いて、石室(いしむろ)の土蜘蛛(つちくも)を襲(おそ)ひて、稲葉(いなば)の川上に破りて、悉(ふくつ=ことごとく)にその党(ともがら)を殺す。血流れて踝(つぶなき=くるぶし)にいたる。故(かれ)、時人(ときのひと)、その海石榴(つばき)の椎(つち)を作りし処(ところ)を、海石榴市(つばきち)といふ。また血の流れし処(ところ)を血田(ちた)といふ。……」


    これは、景行天皇が熊蘇征伐後、豊後(大分県中南部)に凱旋したとき土蜘蛛(つちぐも)を討つ話しで、ツバキの木を武器として槌を作った処を海石榴市(つばきち=大分県大野郡)と名付け、土蜘蛛を討って血が流れ踝(くるぶし)が没する程になった場所が血田(大分県豊後大野市緒方町知田)という。この記事は、ヤマト王朝平定の物語で、また地名起源説話ともなっている。話しの中で「ツバキの木」は土蜘蛛退治の武器とされ、しかも呪術的な霊木として取り扱われている。



    (2)雄略天皇(在位456年〜479年)の皇后が詠んだ長歌の一節。
    「新嘗屋(にいなえや)に生ひたてる 葉広ゆつま椿 そが葉の広(ひろ)り坐(いま)し その花の照り坐(いま)す 高光る日の御子(みこ)に……」

    ツバキは照葉樹であり、かつ「斎つ真(ゆつま)椿=神聖視された木」として詠まれている。雄略天皇は5世紀後半に実在していたとされる人物で、ツバキという言葉は文字のない相当前以前から存在していたという。


    【3】『万葉集(7世紀後半〜8世紀後半、759年成立)』………万葉集におけるツバキの表記。万葉集でツバキを詠んだ歌は10首ほどあり、原文は全て万葉仮名を含む「漢字」で表記されている。使用文字『椿』が4首(歌謡番号54、56、73、3222)、『海石榴(つばき)』が4首(歌謡番号1262、2951、3101、4152、)、『都婆吉(ツバキ)』が一首(歌謡番号4481)、『都婆伎』が一首(歌謡番号4418)ある。


    (1)巻一の歌謡番号54(坂門人足)……「巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を」=〈巨勢山のつらつら椿、この椿の木をつらつら見ながら、つらつら偲ぼうではないか。椿花咲く巨勢の春野の、そのありさまを。〉


    (2)巻一の歌謡番号56(春日蔵首老)……「川の上(うえ)のつらつら椿つらつらに見れども飽(あ)かず巨勢の春野は」=〈 川のほとりに咲くつらつら椿よ、見ても見てもむ飽きはしない。椿の花の巨勢の春野は。〉

    *(1)(2)の歌が詠まれたところは大和から紀伊の国に通じる「巨勢道」。


    (3)巻一の歌謡番号73(長皇子)……「吾妹子(わぎもこ)を早見浜風大和吾待つ椿吹くざるなゆめ」


    (4)巻十五の歌謡番号3222……「みもろは人の守る山 本辺には馬酔木咲き 末辺には椿花咲く うらぐわし山ぞ泣く子守る山」=〈 みもろの山(ヤマトの三輪山)は、人が大切に守っている山だ。ふもとのあたりには、一面に馬酔木の花が咲き、いただきの辺りには、一面に椿の花が咲く。まことにあらたかな山だ。泣く子さながらに人がいたわって守る、この山は。〉 神のこもる三輪山に咲くツバキの木は神木として描かれる。この山は、うわぐわし(心に沁みて美しい)山と呼ぶ。


    (5)巻六の歌謡番号1262(詠人不群)……あしひきの山海石榴(ツバキ)咲く八つ峰(お)越え鹿(しし)待つ君が齋ひ妻(いわひづま)

    (6)巻十九の歌謡番号4152(大伴家持)……「奥山の八つ峰の海石榴(ツバキ)つばらかに今日は暮らさねますらをの伴(とも)」

    (7)歌謡番号3101………「紫(むらさき)は灰さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢える子や誰(た)れ」=〈 紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたは一体どこの誰ですか。〉 椿の花の赤と紫の色を対比させた、色彩感覚豊かな歌となっている。
    *(6)(7)の歌は、いずれも若い男女が交歓する「歌垣」に関するものであり、同時に海石榴市(つばきち)を絡ませて唄った歌である。


    (8)巻二十の歌謡番号4418(物部広足)……「わが門(かど)の片山 都婆伎(つばき)まこと汝(なれ)わが手触れなな地(つち)に落ちかも」


    (9)巻二十の歌謡番号4481(大伴家持)……「あしひきの八つ峰の都婆吉(つばき)つらつらに見とも飽かめや植えてける君」


    【4】『出雲風土記(733年)』………出雲風土記には、『海榴』、『海石榴』、『椿』の文字(ツバキ)の記述がある。



    【5】『延喜式(905年編纂)』賜蕃客例条………第九回遣唐使(733年〜735年)で大使の多治比広成(たじひのひろなり)が贈った朝貢品の中に『海石榴油』がある。この頃の中国(唐)において、ツバキは主に「山茶」と書き表している。


    【6】『続日本紀(797年編纂)………『光仁天皇の御代宝8年(777年)』に、満州で高句麗の末裔が興した渤海国(698年〜926年)が日本ひ使節都豪(クメン)を派遣したとき、海石榴油を所望した。


    【7】『平安時代(794年〜)』………椿油が我が国の貴重な資源として使われ始める。当時は食用、灯用、化粧用ばかりでなく、不老長寿の医薬として重要な国産資源であった。


    【8】『13世紀』………中国では、元(1271年〜)の時代になって『山茶(ツバキ)』が栽培、観賞され、油脂などの資源として使われるようになった。


    【9】『15・16世紀』………京都の龍安寺(1450年創建)には室町時代のツバキが残っており、この頃には観賞花として愛され、品種改良も行われていた。


    【10】『17 世紀』………江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、椿は庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた。茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶室が椿一色になることから『茶花の女王』の異名を持つ。(Wikipediaより)



    【11】『18・19世紀』………ヨーロッパにツバキが進出したのは18世紀の終わり頃といわれている。日本から持ち込まれたツバキは、中国を経由して西欧の地に輸出され、、西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、それが19世紀初頭にかけて大変なブームを巻き起こし、小説家のアレクサンドル・デュマ・フィスが1848年に実際の体験を基にして書いた長編小説『椿姫』が完成、大ベストセラーに。1853年、ジョゼッベ・ヴェルディがそれを歌劇化した。
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    この記事に対するコメント

    ツバキの歴史について最もよく調べられた
    大変貴重な記事です。著者のお名前を知ることができたら幸いです。ツバキの歴史に触れるときに紹介できたらと思っております。
    よろしくお願いします。
    加藤 晋二 | 2015/10/02 6:27 AM
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